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PCM-1(SONY驚異の技術力!) [コンポ/ホームオーディオ]

今やLPやカセットテープ等のアナログオーディオはすっかり廃れてしまい、オーディオといえばデジタルオーディオが殆どなっていますが、実はデジタルオーディオ録音、再生システムを世界で初めて製品化したのはSONYでした。

PCM-1.jpg
↑世界初のデジタルオーディオ製品”PCM- 1"

その始まりは、元NHK技術研究所長の中島平太郎氏が、1971年にSONYに入社、設立したばかりの技術研究所長に迎えられた時まで遡ります。

中島氏は、本放送を控えたFM放送の音質向上の為、それまでコンピューターや電話の長距離伝送にしか使用されていなかったデジタル技術を使って、音を良くしようと考え、NHKで細々と音声のデジタル化に取り組み、2年がかりでデジタルオーディオ・テープレコーダーを作り上げた人物で、日本で初めてデジタルサウンドを実現した人物とされています。

中島氏はSONYに入社後も、デジタル・オーディオの研究に取り組むものの、時代はアナログ回路全盛時代。しかも唯一のデジタル回路を持つ電子計算機"SOBAX"の製造、販売からも撤退した時期であり、SONY社内にもデジタル技術に対して逆風が吹いていた時代でした。

しかしながら、中島氏はデジタルオーディオの夢を諦めず、当時の社長井深大氏の目を盗んで、ひっそりとデジタル・オーディオ技術の研究を続けたそうです。

アナログ信号のデジタル変調には、NHK時代と同様PCM方式を採用したものの、アナログオーディオの約100倍の情報量を持つデジタルオーディオを記録、再生するにはアナログオーディオ機器の流用ではとても記録しきれず、一からメカを作って行く事になるのですが、どうしても機械が大きくなってしまい、結果、1974年に発表されたSONY初のPCM録音機器"X-12DTC" は2インチテープを使用し、56チャンネルもの固定ヘッドを使用した大型冷蔵庫並の大きさになってしまいました。

X-12DTC.gif
↑X-12DTC

X-12DTCはオーケストラの生録テスト等を行い、各国のオーディオフェアに参考出品し、専門家の中からは音のキレの良さ等を評価する人物も現れた、結局販売はされず、中島氏は更に安くて、小型の製品開発に取り組む事になります。

そんな折、開発メンバーの一人、伊賀章氏が「オーディオよりも情報量が多く、周波数帯域がアナログオーディオの200~300倍有るビデオ機器ならば、情報量の多いデジタルオーディオを記録出来るのではないか」というアイデアを思いつきます。

折しも、家庭用VTR、ベータマックスが発売された時期であった為、中島氏はすぐさま、ベータマックスにデジタル・オーディオを記録、再生する回路を作成し、試してみました。

こうして出来上がったのがPCMプロセッサでした。ベータマックスのVTRとプロセッサの二つが揃って記録、再生が可能となるデジタルオーディオ・テープレコーダーシステムです。このシステムを1976年のオーディオフェアに出展すると、周りには人だかりが出来、話題騒然となったそうです。

翌年1977年9月にこのPCMプロセッサは、"PCM-1”として製品化。ベータマックスのVTRと対を為して初めて成立する代物でしたが、デジタルオーディオ録音、再生が行える世界初の製品です。

"PCM-1”はその音質からオーディオマニア層を始めとして、大賞賛を得る事となりました。

しかしながら、、それと同時に賞賛を上回る、クレームを受ける事となります。

アナログオーディオを遥かに上回るダイナミックレンジを持つ為、それなりに防音設備の整った部屋で使用しないと周囲のノイズを拾ってしまいブーンといういう、電磁ノイズも記録してしまうという問題が有った為です。

”PCM-1"はこうした状況からクレームの嵐を受ける事となりましたが、中島氏らはクレームを真摯に受け止め、クレームを細かく分析、分類しました。

その結果、技術的に不足しているものも有れば、説明が足りず誤った使い方をしている場合も数多く有る事が分かり、次のシステム開発の為の貴重な経験を積む事になったと言われています。

クレーム対応に追われる中島氏らでしたが、一方で彼らを勇気づける出来事が有りました。

家庭用と同時に開発を進めていた業務用PCMプロセッサの試作機を賞賛した人物の中に、カラヤンがいたのです。

カラヤンは井深大氏と共にSONYを創業した盛田昭夫氏の長年の知己であり、1978年の9月にカラヤンが盛田氏の自宅を訪れた際、盛田氏はサプライズとしてSONYの技術者がザルツブルクを訪れた際、カラヤンの練習中にこっそり録音した曲を聞かせたところ、カラヤンは「新しい音だ」と大絶賛したと言われています。

また、カラヤンは将来の録音システムを見据えても、アナログよりPCMのデジタル音の方が優れていると判断したそうです。

"PCM-1"は性能的には優れていたものの、決して完成された製品では有りませんでした。しかしながら、その後のデジタルオーディオシステム開発の礎を築いたという意味では、画期的な製品と言えますし、何より30年以上前に家庭用デジタルオーディオシステムを販売したというSONYの技術力には驚かされます。

パソコンの世界ではクラウド化が進み、将来的にはハードウェアスペックに依存しないサービスが提供されると言われていますが、テレビやオーディオ機器など、人間が最終的に知覚出来るアナログ信号のインターフェースはハードウェアに依存するしか有りません(まぁ、遠い未来に脳の電機信号を直接伝送するというシステムが実現したら話は別ですが…)。

ネットワーク構想も重要ですが、SONYには"PCM-1"を開発した様に、優れたハードウェア開発の気概、技術力を持ち続けて欲しいものです。




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今年はCD発売30周年

今年はCD発売30周年①
 ソニーの内部もフィリップスも全員が14ビットでいいといっているとき、私ひとりだけ16ビットにこだわった(だからCDROMがうまくいった)。それはAES(Audio Engineering Society)の副会長を務め、プロオーディオ業界の人たちがえらく音質にこだわっていることを学んだから・・・。
 あのとき皆を説得する理論として「Quater Century Law(25年周期説)」というのをでっちあげ、CDは2002年まで持たせなければいけない、だから高音質にするのだ、と強硬に主張した。25年周期というのは、ソニーがCDのプロトを発表した1977年がエジソンの発明からちょうど100年。その間、25年ごとにベルリナーの平板レコード、LPなどが出現しており、CDが引退するのは2002年という、私独自の予測。
 当時は「はるか将来」という意味で主張した2002年から、もう10年もたっているが、予測に反してCDはまだ現役だ。2002年には、円盤から半導体に置き換わる、と予測し、本にもそう書いたが、実際にはiPodなど、ハードディスクに置き換わりつつある。半導体の容量増加は予測通りだったが、思ったより価格が下がらなかった。


今年はCD発売30周年②
 大賀副社長の説得でカラヤンがCDの応援部隊になったことはよく知られているが、スティービー・ワンダーもすごく応援してくれた。これは私ひとりでアメリカの録音業界で活動していたため、ソニー内部でもあまり知られていない。
 当時は、AES(アメリカ・オーディオ学会)が業務用のディジタル・オーディオ機器の標本化周波数を国際規格として定め、CDもそれに従わせようとしていた。それに対抗して主導権を握るため、私は、急遽業務用機器を開発した。数量が少なくLSIが起こせないため、業務用機器は値段が高くなり、マルチトラック録音機はアナログの最高級機の4倍以上の値段になった。スタジオ関係者は「冗談じゃあないよDr.Doi。こんなの買ったら、スタジオ使用料を高くしなければならず、経営が成り立たないよ!」と毒ずいた。
 一台も売れずに悶々としていたら、スティービー・ワンダーが電話をしてきて、「あした一台持ってきて・・」。その後も彼から追加の注文が次々に来た。そのうちに、ビルボードのベストテン・ヒットの半分くらいがソニーの機器で録音された曲になった。機器が優れていたからではなく、ヒットを飛ばせるような有名ミュージシャンしか買ったり使ったりできないほど値段が高かっただけだ。
 そうなると、他のスタジオも買わざるを得ず、ソニー機はたちまちベストセラーになった。値段が高いことがマーケティングにつながった珍しい例。


今年はCD発売30周年③
 クラシックの録音業界では、フィリップス傘下のドイツのポリグラムが応援してくれた。ソニーの最初の業務用機は、放送局用VTRを利用したステレオ機(PCM-1600)だった。ビデオ用電子編集機で音楽も編集できると私は思って商品化したのだが、実際にはボタンを押してから機器が反応する時間遅れのため、誰も編集できなかった。それでも、ポリグラムは無編集のクラシック録音のために何台か買ってくれた。
 このとき、ビデオの編集機で音楽を編集できたのは、世界中でスティービー・ワンダーただひとり。目が不自由のため、アナログ機のテープをかみそりで切る編集は不可能だったのだが、電子編集になれば自分でできることを喜んで、2セットを買ってくれた。録音が終ると、彼はスタジオに籠って編集し、朝になると完成していた。他の誰もできなかった、ボタン操作の時間遅れを、彼がどうして克服できたかは今でも謎。おそらく天性のリズム感覚で時間遅れを補正したのだろう。
 ポリグラムの提案で、音楽用の電子編集機を半年で試作しAESで展示したら、編集もできない欠陥商品のPCM―1600がどんどん売れ始めた。そのかわりに、電子編集機の試作機が世界中を回って彼らの録音を編集するという離れ業をやった。
 いま振り返ると、とんでもない綱渡りのビジネスをしていたなぁ、と感慨深い。


今年はCD発売30周年④
 ディジタル・オーディオのプロジェクトは、NHKから移って来た中島平太郎技術研究所所長の主導で始まった。ところが、ソニーの創業者である井深大さんがディジタル嫌いだったため、社内では賛成者がおらず、人知れずこそこそやっていた。
 音質評価のためには、いい録音が必要になるが、たまたまポリグラムがカラヤンを録音するときに、こっそり録音させてもらった。翌週カラヤンが来日し、盛田社長(当時)の家を訪問するというので、余興にその録音を聴かせた。カラヤンは、違法録音がこんなところにある、と激怒したが、ディジタル録音の音の良さを絶賛した。この時以来、日蔭者のCDプロジェクトが、社長、副社長が応援するカンパニープロジェクトに格上げになった。
 井深さんが大反対していたCDが成功したことで、ソニーの世代交代は早まったと思う。井深さんの一番弟子で、なおかつCDプロジェクトの責任者を務めた私は、とても複雑な心境だった。でも、心の広い井深さんは、「あのとき反対して悪かったね」と言ってくれた。こういう上司のもとで働いた記憶は、生涯の財産になる。


今年はCD発売30周年⑤
 そういえば、ジャズピアニストのハービー・ハンコックも応援してくれたな・・。放送局用のVTRを使ったステレオ録音機の試作機がようやく一台できた頃、ハービーの「バタフライ」という曲を録音させてもらった。AESでデモする時それを使ったが、ハービーは長時間ソニーのブースで過ごし、私と一緒にお客さんの相手をしてくれた。一流のミュージシャンがサポートしている、ということは、業務用オーディオ機器ビジネスにこれから参入しようとしているソニーの信頼度を限りなく高めた。
 ただ、出来たての試作機を貸し出してハービーとチック・コリアのピアノデュオを録音をしていた時に機器が故障した。アナログ機のバックアップがあったのでLPは発売できたが、「ディジタル録音」と大々的に印刷したジャケットは捨てなければならず、危うく訴訟になるところだった。


今年はCD発売30周年⑥
 CDがすんなり世の中に受け入れられたのではない。AES(オーディオ学会)では、ディジタル派と、アンチ・ディジタル派に真っ二つに分かれて、すさまじい闘争があった。まだ商品はなく、試作機を使って録音したLPを、「ディジタル録音盤」と称して宣伝していた頃だ。
 アンチ派は、MAD(Musicians Against Digital)とかいたそろいのT-シャツを着て練り歩き、「ディジタル録音盤」を聞くと体に悪い、という大キャンペーンをはった。一時はAESの会場がほとんどMADのT-シャツで埋め尽くされるほどの勢いがあった。
 私は、ディジタル派にかつがれて副会長になり、リーダー的な役目を担っていた。そして、ディジタル派の役員たちに、一切の挑発に乗らずに議論するな、と厳命した。議論すればするほど敵の術中にはまるので、沈黙を決め込んだのだ。一年くらいたつと、有名ミュージシャンがディジタルをサポートするようになり、次の選挙でアンチ・ディジタル派の役員は全員落選した。
 かなり激しい戦いだったのだが、私以外は全員欧米人で、舞台もアメリカとヨーロッパだったため、この話はソニー内部でもほとんど知られていない。


今年はCD発売30周年⑦
 CDが成功して、AESで表彰を受けた時の私のスピーチ:「民生機器も業務用機器もディジタル化した今日の隆盛は、感に堪えません。だけど、お願いですから音楽自体はディジタル化しないでください。ディジタル・ミュージシャンはとてもひどいもんでしょうし、ディジタル・ミュージックときたら、音(ノート)は二つしかないでしょう(笑)。そうしたら私は「Two Note Samba」という曲を作曲するでしょう・・」
 このスピーチは、その後何人かの人に引用された。


今年はCD発売30周年⑧
 学生時代にグライダーにのめり込んでいた。東京湾を横断して57Km飛んだ時、教官の裏切り行為によって記録が抹殺されてしまった。それがトラウマになり、20年間悪夢にうなされてきた。CDが成功してAESで表彰を受けた夜、悪夢と同じシーンが法悦に変化した。私は、CD開発のエネルギーが、学生時代の教官の裏切りによるトラウマだったことを知った。
 この経験は、いま天外塾で経営者たちが葛藤をエネルギー源にしている姿に重なる。葛藤のエネルギーは、とても強力で創業する時などには欠かせないが、そのままでは「フロー経営」は出来ない。「葛藤の負のエネルギー」から「フローの喜びのエネルギー」へのシフトが課題。
 なお、上記のエピソードは『光の滑翔ーCD開発者の魂の航跡』(飛鳥新社)という小説として刊行した。ドイツでの私のスキャンダルまで勢い余って書いてしまったが・・・


今年はCD発売30周年⑨
 考えてみると、私はCDの開発の責任者だったにもかかわらず、結構道草ばかり食っていた。
 前にFBに上げたが、東京湾に万里の長城のような堤防を築いて潮汐の満ち干に共振させるというアイディアを思いつき、大規模クリーンエネルギー開発を進めていた。コンピュータ・シミュレーションは四人でやっていたが、波動方程式を有限要素法で解いていく解析部分は私ひとりでプログラムした。アンテナで博士号を取ったので波動方程式の扱いに慣れていたからだ。これは結構な時間がかかった。
 もうひとつは、当時はまだ世の中になかったディジタル・シンセサイザーの開発を進めており、CD開発で知り合ったジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックに音作りを頼んでいた。私自身ミュージシャンでもあり、CDの開発よりむしろ乗っていた。 ところが、当時の岩間和夫社長は、シンセサイザーの開発をやめてCDに専念しろ、と言ってきた。やんちゃ坊主の私は怒り狂って、そんなら会社を辞める、と宣言した。中島平太郎所長は困り果てて、私を盛田昭男会長(当時)の所に連れて行って説得を試み、ようやくおさまった。
 あそこで辞めていたら、おそらくCDは世に出なかったし、私のキャリアもなかっただろう。また、岩間社長の判断も、今にしてみればまったく正しかった。
 青春のホロ苦いひとこまだ。


今年はCD発売30周年⑩
 世界最初のディジタル録音機は、VHSに押され気味のソニーの家庭用VTR「ベータマックス」のアダプターという形で商品化された。商品名は「PCM-1」。発表が1976年、翌年発売。
 天才的な技術者、伊賀章の提案だ。提案当時の彼は、上司との折り合いが悪く、典型的な「不良社員」だったので、私の研究室への移動は何の抵抗もなかった。伊賀章は、その後SUICA、PASMOなどの非接触カードを発明し、ソニーの役員になった。余談だが、この時の経験が、ベストセラー『人材は不良社員からさがせ』(講談社)という本を生んだ。
 さて、PCM-1だが、世界初ということで大評判を呼んだが、発売後クレームの嵐に見舞われた。テープ上の埃や傷による「符号誤り」の対策が不十分で、けたたましい雑音になるというのだ。客先に出向いて調べていたら、研究室での統計データが何の役にも立たないことが分かった。市場には、トラッキングがずれていたり、ヘッドとのあたりが悪いVTRが山のようにあり、単に誤り率が高いだけでなく、統計的な性質も違ってくるのだ。PCM-1は、その他の理由もあったがしばらくして発売中止になった。
 この苦い経験は、CDの開発に生きた。符号誤り対策のコンピュータ・シミュレーション・システムを構築したが、実験室で取ったデータだけではなく、その統計的性質が変化した時の強さも評価できるように工夫をしたのだ。
 CDの開発はフィリップス社との共同だったが、符号誤り対策ではソニーの方式が圧倒的な強さを見せた。それは、フィリップスが実験室内における良品のの統計データだけを頼りにしていたので、実際に傷をつけたりチョークの粉をかけたりしたときの強度が不足していたからだ。
 世界最初という名誉を背負った割には、薄幸な運命をたどったPCM-1だったが、経験がCDに生きたのと、もうひとつはスティービー・ワンダーに愛された、というおまけがついた。生産中止になってしばらくしてから、スティービーがPCM-1の中古品を買いあさっている、という噂を耳にした。関係者に「なぜ?」と聞いたら、彼は生産中止になって喜んだ、というのだ。常に曲想が湧いたら録音する習慣があるのだが、それを盗まれるのを極端に恐れていた。生産中止になったPCM-1だったら、テープを誰かが持って行っても再生できないから安全だというのだ。おそらく数十台は買い集めたと思う。
 まあ、スティービーに愛されたとすれば、たとえ短命でも幸せな生涯だったと言えるだろう。


今年はCD発売30周年⑪
 CDの成功は、「誤り訂正符号」と「符号誤りのコンピュータ・シミュレーション」という二つの技術に支えられていた。
 「誤り訂正符号」は、抽象数学を使った精緻な理論が完成しており、宇宙通信で金に糸目をつけずに使われていたが、民生機器で使えるとは誰も思っていなかった。CDは、「誤り訂正符号」を搭載した最初の大量生産品となった。
 CDのプロジェクトをはじめる6年も前に、私はアンテナの研究のために東北大学に国内留学をし、「誤り訂正符号」の存在を知り、ゼミに顔を出していた。
 また、CD開発の直前にやっていたのが、ICの生産時のばらつきを推定するためのコンピュータ・シミュレーションだった。この当時、コンピュータを扱う技術者は珍しく、その中でも確率統計計算に詳しい人は、ほとんど私の研究室にいた。そのチームを、そっくりそのまま符号誤りの計算に振り向けた。技術的にはほとんど同じ計算なのだ。
 この二つの事実は、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。『運命の法則』(飛鳥新社)を書いた時、個人の思惑を超えた「宇宙のサポート」あるいは「大河の流れ」と表現した。つまり、私が何かをやったというよりは、はるか上の方で誰かがシナリオを書いており、6年も前から準備が進んでいた、ということだ。
 それがわかった時には、戦慄が走った。宗教的に「神」という言葉を使えば簡単だが、合理性を超えた宇宙の営みを感じ、居住まいを正して厳粛に受取らなくてはいけない、と思った。
 それ以来、私の生き方はかなり変わった。あまり、あがかなくなり、すべてを宇宙にゆだねられるようになったのだ。


今年はCD発売30周年⑫
 「CDはいつごろLPに置き換わりますか?」とよくマスコミに聞かれた。SPがLPに置き換わった例を引いて「15年くらいかかるでしょう」と答えていたが、実際には6年で抜いた。
 そのころ、ガムラン音楽を録音して脳波を測定すると、生を聞いた時と明らかに違うという実験結果が発表された。どうやら、20KHzで周波数を切っている影響らしい、というのだ。マスコミに「どうですか」と聞かれた私は「それは大いにありうる話です」と答えて、広報部からおこられた。「自分で発明したCDを否定するのですか!」と。
 私は、正直に自分の見解を述べただけだ。人間は意識で検知できる範囲を超えた知覚がある。それをサブリミナルという。「聞こえますか、聞こえませんか」という調べ方をすれば、20KHzが限界だ。ところが、意識できない周波数領域の影響は確かに受けているのだ。これは視覚などのあらゆる知覚にあてはまる。
 その後、100KHzまで再生できるSACDが発売されたが、商業的には成功しなかった。確かにCDより音はいいのだが、私に言わせれば、まだ生演奏とは明らかに違う。何か周波数帯域以外の要素があるのではないかと疑っている。音楽は、生演奏が一番いい。皆ライブに行こうぜ!
 上記の私の発言は「CDの発明者が、限界を認めた」と話題になったが、だからといってCDの売上に影響は出なかった。嘘をついてまでマーケティングをする必要はないのだ。
by 今年はCD発売30周年 (2012-12-28 21:45) 

CD発売30周年

 18日(土)は、「CD発売30周年」のパーティー。中島平太郎さんをはじめとする懐かしい面々が40人ほど集まった。しばらく見ているうちに昔の顔がよみがえる。
 私は皆が知らないごく初期のお話をした。1977年に我々は「PCM-1」というVTRのアダプターを発売した。これが世界最初の商品化されたデジタルオーディオの録音機だった。それと同時にCDの原型となる直径30cmのディスクの開発発表をした。そうしたら、翌1978年に突然米国のアトランタに呼び出された。3Mという会社が業務用のマルチチャンネルの録音機の開発発表をしたので、デジタルオーディオの技術規格を決めるための会議が招集されたのだ。彼らは業務用機器の規格を決めて、それに合わせて家庭用機器の規格を決めるようにプレッシャーをかけてきた。物も作っていない彼らに家庭用機器の規格を決められたらかなわない。私は英語も喋れないのに、たった一人で大勢の欧米人相手に戦った。そして3日間の会議が終わると高熱を発してホテルで倒れ込んだ。
 この規格化戦争を戦うためには、ソニーも業務用のマルチチャンネルの録音機を開発するしかない、と決心して旅行中にホテルの便せんにフォーマットを書きつけた。
 3M機は1インチテープで32チャンネルを実現して拍手喝さいを浴びていた。アナログ機は2インチテープで24チャンネルだったので画期的に見えたのだろう。でもデジタル記録にすれば、S/N比がいらないので本当はもっと詰め込めるのだ。私は3Mの3倍の記録密度に決定し、1/2インチのテープに48チャンネル詰め込むことにした。また、3M機は編集は電子的にやる、と言っていたが、電子編集は録音機が3台ないと出来ない。高価な機械を3台用意するのは大変なので、私はアナログ機と同様な手切り編集が出来るフォーマットを工夫した。アメリカから帰ってくると、エンジニアにそのフォーマットを提示して即開発をはじめ、半年後のニューヨークの会議には試作機を展示した。これは業界全体が度肝を抜かれた。それはそうだろう、これだけの開発を半年でやる企業はない。しかも密度は3倍だし、手切り編集もできるというのだ。
 後に商品化の試作機が一台できた時、フランク・ザッパがロンドン交響楽団のために曲を書いたのでそれで録音させてくれ、と言ってきた。私はクラシックなら多分一発録音なので編集もしないだろうと思ってOKをだした。ところが録音が終わったら30数カ所の編集が必要だというのだ。私は青くなった。まだ手切り編集はろくろく検証出来ていなかったのだ。その日、ザッパがソニー機で手切り編集をする、というニュースはアメリカ中のスタジオに流れており、私のみならず、きわめて大勢の人々がかたずをのんで見守った。編集がうまくいった、というニュースはその日のうちに全米を駆け巡った。これで勝負が決まった。3Mは後に業務用録音機のビジネスから撤退した。
 編集がうまくいった後、ザッパの自宅に招かれてご馳走になった。スコアを見せてもらって驚いた。17連音符とか25連音符とかがいっぱいあるのだ。要するにザッパのギターの手ぐせみたいなフレーズをそのまま書いていたのだ。これでは練達したロンドン交響楽団のメンバーも一発録音できる訳はない。もし、事前に私がこのスコアを見ていたら、絶対に録音は許可しなかっただろう。
by CD発売30周年 (2013-05-19 09:46) 

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